統帥 権 の 独立。 昭和天皇の統帥権について

統帥権の独立と検察・日銀の政治的中立について

そこでは皇帝ウィルヘルム 2世自身が統帥権を持ち、従って参謀本部も宮中にあったが、日本では山縣の発案で、天皇直接ではなく、軍が権限を持つために宮城の外に参謀本部を作った。 ) 15・16条で栄誉・恩赦(勲章あげたり、罪を許したりできます。 このため軍部を天皇直轄として、政府が動揺しても軍には変わらず体制の擁護者たることを求めたのです。 これを「 統帥権の独立」と呼び、総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣など内閣のメンバー(閣僚)が軍の作戦や指揮に口を出そうとすると、「統帥権の干犯(かんぱん)である」と参謀本部・軍令部員より激しく抵抗されました。 今日でも依然として此地位を軍部に維持せんとしてか、頼りに軍部の特権は制度及び慣行に依て定めざるべからずと説くものがある。 絶対王政国家は、現在世界では一応5国のみ存在していますサウジアラビア、スワジランド、UAE、オマーン、ブータンの5つです。

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統帥権の独立と帷幄上奏

その後しばらくクロムウェル時代が続き、王政復古となるわけですが・・・ その後、名誉革命をへだてて、王家はハノーヴァー朝になります。 実質的に天皇は統帥権から切り離されていた。 軍部の快からずとするも怪むに足らない。 平時・戦時の軍隊の編成に関する裁可• (法律を作る権利。 従て心ある国民も亦、海陸両面に跨る所謂軍閥問題の清算の端緒を見得べしとして、今次の紛糾の成行に多大の関心を寄せて居るのである。 同様に、1884年のフランス歩兵操典の翻訳である明治20年の操典は、1891(明治24)年制定の『歩兵操典』に置きかえられる。

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軍をコントロールするための基本構造-統帥権と軍令・軍政

元大本営作戦参謀の瀬島龍三氏(元伊藤忠商事会長)は、 1941 年(昭和 16 年 ) 12 月1日(開戦 7 日前)の御前会議で米英及びオランダに対する開戦を最終決定したが、この時点においても対米交渉を継続していた東郷外相でさえ「もとより東郷外相は真珠湾攻撃など夢にだに知らされていませんでした」と著書「大東亜戦争の実相」に記している。 ご存じのとおり大日本帝国憲法は明治藩閥政府時代に成立した憲法なので、政党政治下では党利党略の道具の一つにならないように独立させていたということです。 それとは別に海軍には軍令部、陸軍には参謀部があり、軍令部総長・参謀総長がおりました。 そして、統帥権独立の制度は、このような軍事思想の形成と発展に大きな影響を与えているように思われる。 これに関して2つの質問があります。

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日本とドイツの軍事思想比較 ―統帥権独立の影響― (その3)||CLAUSEWITS学会

まあ、アメリカと戦争すると必ず負ける(当時の日本も勝てるとは思っておらず、最初に戦局を有利に進めて講和に持ち込む考えでいたようですが)ので無謀な戦争だったと後から見れば言えますが、戦争に負けたからといって戦前の日本が大国であった事実・民主主義国家であった事実まで矮小化するのはどうかと考える次第です。 なお、統帥権独立の考えが生まれた源流としては、当時の指導者(・)が、政治家が統帥権をも握ることにより幕府政治が再興される可能性や、政党政治で軍が党利党略に利用される可能性をおそれたこと 、・が政治・軍事両面を掌握して軍令と軍政の統合的運用を可能にしていたことから、後世に統帥権独立をめぐって起きたような問題が顕在化しなかったこと、にがによって作戦を退けられてで戦死し、の衰退につながった逸話が広く知られていたこと などがあげられる。 斯う考へると、此の主張も至て根拠の薄弱なものだと思はれるのに、議会両院の論戦に於ては不思議にも頗る重要視され、或は倫敦条約の締結は憲法第十二条に依つたのかの、又は統帥権と編制権とは互に相作用することなきかのと、頻に婉曲にして毒を含んだやうな質問が繰返されて居た。 「・・・滑稽なことには誰も憲法の内容をご存じないのだ」と記し、 更に「日本憲法が発表された。 しかし、当時は、これが起きてしまうような状態だったわけです。 その後の1889 年(明治 22年) 2月に制定された大日本帝国憲法においても、一般統治権と軍の統帥権が憲法上も分離された。 そのための制度的なバランス調整として、検察庁法14条は「法務大臣は、第4条及び第6条に規定する検察官の事務に関し、検察官を一般に指揮監督することができる。

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昭和天皇の統帥権について

1回は2. 参考文献 [ ]• 言い方を変えましょう。 追究があまりに烈しいから軍部も亦馬鹿に頑強にならざるを得ないのであらう。 2011年• 『統帥権と帝国陸海軍の時代』新書、2006年。 軍部のボイコットに依て内閣の瓦解を見又は其の不成立に終つた例もあるが、少くとも組閣に際し軍部の或種の注文を容認するを条件として軍部大臣の就任を見ると云ふが常である。 もちろん、日常的に政府と日銀が政策目標についてしっかりすり合わせをするということも重要だと思いますが、もともとの人選の時にしっかり考えていれば今の菅大臣のようなボヤキはなかったはずです。

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軍をコントロールするための基本構造-統帥権と軍令・軍政

今と大きく違う点は、総理大臣が憲法で定められていなかったことです。 Hahlweg, 'Das Clausewitzbild. また英国国王は軍人国王ではなく、前述したように象徴的統帥権者として君臨するのみであり、軍事作戦に関わることはない。 したがって、政治指導者は軍事に、軍事指導者は政治に一定の見識をもっており、また両者は国際環境の状況認識がほぼ一致するとともに、政治の優位を自明としていた(・卒の専門職意識をもつエリート軍人が軍事指導者にまで上りつめていない時代)。 つまり、統帥権を含め国務は輔弼の臣の輔弼行為に依拠し、天皇は積極的な国政への関与を控えていたと言うことです。 著者の秦氏は5の要因を強調されておられます。

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新国軍における統帥に関する一考察(5)

今度の問題を機としてこれから段々諸学者の研究が公にされるだらう。 憲法発布に沸き立つ民衆の騒ぎを、東大医学部教授であったベルツは、皮肉を交えて日記に書き残しています。 Versuch einer Widerlegung', In: Beihefte zum Milit? (ロ)又軍事に関する特別の諮詢機関を設くべしとならば、嚮きに発布されたことのある 防務会議(大正三年六月)の如きを再興するもよからう。 山県有朋が軍や政府内部で権力基盤を確立する過程に、大いに利用されたというわけです。 現に今度の紛糾に付ても軍部は統帥権の干犯を呼号して居るのに対し、天下の輿論は挙つて軍部を制して正当なる規道に復せしむる為め何故に浜口内閣がこの好機会に乗ぜぬかを責めて居るではないか。 また、日露戦争を目前にしたこの時期に、『戦争論』の全訳が日本で初めて出版されている。

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昭和天皇の統帥権について

1909 年(明治 42 年)制定の「軍令に関する件」では、更に元帥や軍事参議官にも帷幄上奏権を認めた。 また、『統帥綱領』は、軍事機密に指定され、閲覧者は極めて狭い範囲に限定された。 当然ながらこのような軍事と政治を分離した体制は、対外戦争において非効率的なものですが、日清・日露戦争では伊藤博文や山形有朋などの元老が言わば超法規的に軍と政府の意思統一を図ったため、問題は表面化しませんでした。 総じて言えば本来、過渡的な体制であった筈の明治維新体制が、皮肉にもその成功故にこそ維持され、時代に合わなくなった状態で行われた普通選挙による民主化が、党利党略しか考えない近視眼的な政治家を生んでその問題を拡大し、また政府及び軍中央が武力行使を支持する世論に阿って誰もが責任を取ることを回避していった結果だと言えるでしょう。 これは、参謀本部の地位の向上を意味したが、まだ統帥権の独立は達成されていなかった 4。 これは、金融政策については、政府から独立した中央銀行という組織の中立的・専門的な判断に任せるべきとの考えです。

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