カール バルト。 カール・バルト著作集の一覧

カール・バルト

Lutherfeier 1933年• 新教セミナーブック1: 『教義学要綱』、208頁、2100円。 ただ、ついでに言えば、バルトの説教を翻訳している人々の中に、このバルトの説教の特質を理解せず、まるで神学論文でも訳すような思いで訳している人が多い。 だからこれは人間中心の近代文明を、当時の人々が謳歌し讃美していた時代全体に対する大きなマイナスという括弧という痛烈な批判、警告だったわけです。 2 要約 以下の中で、井上良雄による『地上を旅する神の民』だけは簡便で有用そう。 比類なく明快な観念は例外というが、そんなものは実は無いに等しい。 『バルト神学とその特質』の改訂第二版として計画されたもの。 G.ザウター(深井智朗、徳田信訳)、『終末論入門』、教文館、2005、377頁、3675円。

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カール・バルトの失策|ikedam|note

171-172。 イギリス人の神学者ジョン・ウェブスターによれば、バルトとは「近代の伝統を崩壊に追いやった中心人物」であり、近代をめぐる「活発な批評」をとおして近代の「致命的な弱点」を露呈させた神学者ということになる。 これは、『クリスチャン・センチュリー』誌に十年ごとに掲載されたもので、バルト42歳から72歳までの自叙伝。 サブタイトルが、「死刑と戦争をめぐる創造論の倫理」。 人としての歴史を歩んだイエスの人生によって培われた道徳の力をとおして、キリスト教徒の生活は神の精神と交わりをもつことができるとヘルマンは主張した。 その神学は彼の著書『ローマ書講義』や『福音主義神学』、『教会教義学』という膨大な著書において記されている。

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われ弱くとも恐れはあらじ

イエスの生涯や聖書の正統性や奇跡の蓋然性に反論する彼らの考えは薄っぺらで私には何ら危険なものとも思えなかった。 ",body:a,description:a,status:t,publishAt:"2016-09-29T09:03:20. われわれは、「そのことで、神を、その本質のすべての深みにおいて事実、われわれを愛され、したがってご自身をわれわれにおくり与えられ、われわれの認識の対象としてご自分を措定する方」として、それ故に「(決してそれ)以外の者でない方としてだけ見出すことができる」。 大島末男「バルトとティリッヒにおける神学と哲学」(pp. 大崎節郎、『神の権威と自由』、日本基督教団出版局、1982、376頁。 「終末論的出来事の言葉・説教」の中で、カール・バルトを手がかりに、説教者における終末信仰を論じる。 そのほか、「キリスト論的基礎づけ--三位一体論的に基礎づけられたキリスト論的集中」、「祈りの中の思惟と活動的見方--『教会教義学』の神学的思惟と記述の特徴」。 東神大図書館にない。 新教セミナーブック16: 『ピリピ書注解』、176頁、2200円。

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カール・バルトの失策|ikedam|note

227-339の訳を合わせ、さらに井上良雄訳の「ハンガリヤの若き友へ」と「日本の友へ」を付加したもの。 19)。 真理は神の真理である。 われわれは 神の手の及ばない存在であり、神の高みにまで至りうる思惟能力を欠いている。 しかしキリスト教の独自性は、検証可能な知識ではなく、個人の経験に拠り所をもつところにある。 川名勇訳、新教出版社、1962、306頁。

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カール・バルト著作集の一覧

『カール・バルト著作集』や新教新書に入っていない邦訳など。 「モーツァルトの音楽の黄金の音色と調べは、若い時代から福音としてではないが、福音において啓示された神の自由な恩寵の国の比喩として私に語りかけて来た・・・。 神認識がキリストの契機なしには起こらないという点ではブルンナーとバルトは主張を同じくするが、ブルンナーが主張した「人間における結合点」とは人間において聖霊の力が働いて神を認識することを言っているからである。 読み応えがある相当重厚な論文。 宮田: 私の『カール・バルト』の最後に、「日本人の友に」宛てた手紙というのが入って引用されているんですが、その中でこういうんです。 それで面白い話が届いたんです。 しかし、それくらい出しても惜しくないくらいバルトという神学者は面白いし、「役に立つ」。

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「カール・バルト」および「吉本隆明」等

井上良雄,佐藤敏夫「『現代キリスト教の思想』概説」、シュヴァイツァー(蓮見和男訳)「文化の没落と再建」(1923)とバルト4本、そして、ブルンナー(佐藤敏夫訳)「危機の神学」(1929)。 私がちっちゃい時に母の膝下で教わった一つの賛美歌でお答えしましょう」と言って、続けて彼の口から出たのは、世界中でよく知られた子どもの賛美歌の「主われを愛す 主は強ければ われ弱くとも 恐れはあらじ」という賛美歌なんですね。 聴衆は、学生の大胆さに息をのんだんですが、バルト自身は少しも困った顔を見せないで、「よろしい。 99-125)。 この見方によって彼の神学は、哲学の古典的な様式に極めて似通ってくるのであり、それはキリストに「原理」や物事の「始まり」を探る役割を期すのである。

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『使徒的人間──カール・バルト』(富岡 幸一郎):講談社文芸文庫|講談社BOOK倶楽部

ただ神自身をとおしてのみ神を知りうるのだ。 わずか11頁の、バルトとの出会いと訪問記。 あとがきによれば次のような感じ。 45人のバルトの影響と評価。 バルトには、神の本質を神が自身を啓示した行為と同一視する特別な理由があった。 前半は井上良雄訳『イエスは主なり』新教出版社1950、後半は井上良雄訳『聖金曜日』1962。 これはカント派からもヒューム派からも抵抗を受けることがなければ、哲学的思惟を頼みにすることもないのである。

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